sasakisanの本業紹介

勉強は嫌いだったので、大学には行かず、高専へ進み、そのまま就職しました。 機械系のエンジニアとして、20年以上、一般の方が購入されるような商品の設計をしていましたが、 その後、業務用というか、特殊な人が使う装置関連の仕事を2年ほど担当し、近々では特殊な実験室の構築と言えば聞こえは良いですが、研究用の設備の支援のようなことをメインにしてます
まあ、日替わりではないですが、今年の仕事がなんなのか予測できないような立場です
現役のエンジニアか、と言うと、微妙ですが、現場に近いところにいます。 図面を書いているかと言えば、もう10年以上離れています。

私が設計を担当した商品で、皆さんが知っているあるいはご購入いただいた製品もあるかも知れません。 商品設計はチームで取り組みますので、いくつかの製品に携わったというのが正確な表現です

紹介する目的は、「会社のエンジニアも結構面白いのですよ」という事を一人で多くの方に伝えたい。 こういう仕事をしてみたいという人がでていただければとの思いです


レベルの高い、特殊な技術や、知識はありません、精密機構設計者としての普通の経験と知識です。 特に言えば、新しいとか、変わっているとか、気が利いているとか、今までと違うことに対する偏執的なあこがれと、 それを捻出する執念には自信があります、手堅いかと言えば、ざるです。
400件以上の特許の発明者として検索されます。
まあ、登録率は10%強、いわゆる、応用特許、防衛特許的なものが多いです。 ですが、単なるアイディア特許でなく、その多くが、製品化、実用化されているものです


はじめの会社に入社して2年目くらい、1978年頃と思います、その後のエンジニアとしての活動を決定付けた物です
現在の技術から見れば、笑ってしまうような機構ですが、この時は、これが採用され 多くの製品に搭載されました。  カセットテープレコーダーには機械式カウンタがついていました、高級機にはゼロになると接点がつながるスイッチ付きカウンタによりその場所で停止する機能がありました。(セットした位置から何度聞くために、巻き戻しがその位置で止まる機能) 普及機は今でもそうですが機械式に操作ボタンを保持するので、スイッチ付きカウンタでは、止めることができませんでした。 そもそもスイッチ付きカウンタも高価でした
そこで、ゼロになるときに動くカウンタの回転体から、わずかな力を取り出し、回転駆動している ローラにブレーキをかけるようにしました、ブレーキがかかると、当時のメカニズムは 機械式自動停止機構があり、ボタンロックが外れ、停止しました。

このトロフィーはその時の特許のアイディア賞でいただいたものです

1981年頃だと思います、カセットレシーバーです、レシーバーというのは、チューナー(ラジオ)やカセット、レコードプレーヤーとアンプが一体になった製品の呼称でした
このカセットデッキのメカニズムを設計しました、入社5年目くらいと記憶してます、今でも動作してます。 この頃は仕事が面白くてしょうがなくて、こっそり会社に出たり、寮で、図面を書いたりしてました
夏休みに、自分で部品を削ってカセットメカを作ったとか、カメラを一台作った、なんて人がいる時代でした。いまでもいると思いますね 今なら、自分の提案が通らないからって、自宅で、ゲームソフトを開発するような人種ですね
私は、こういう人達を、自分を含め、野生のエンジニア、天然のエンジニアと呼んでいます。サラリーマンが先に来るようなタイプは、養殖物ですね
 どちらがいいとか言う気はありません、野生の方が変化に強いということもありません

 当時自分の担当は、ラジカセ用のメカで、操作するのに相当な力が必要でした。コンポーネントステレオに使われる高級メカニズムは、フェザータッチと言って、羽の力では動作しませんが、電気スイッチを操作すると、モーターや電磁ソレノイドが動き、その動きで、リンクやアームを動かして、カセットテープを駆動したり、磁気ヘッド移動して、音が出ました
 これをなんとか、安いセットで実現したく、操作の軽いメカを作りたいと考えたのでした
このメカは大変好評でした

下は上記メカを搭載した、ポータブル再生専用プレイヤー
これも動態保存ですね、たまに聞いています
一度目の転職は、8年目くらいでした、親父が亡くなり、自分自身も、毎年の新製品競争に嫌気がさして来て、関西から関東、出来れば田舎から通勤できる所へ転職しようと探しはじめていました。 もっとゆっくり、じっくり、長い年月に渡り、自分の製品が愛され、だからこそ、完成度の高い物ができると考えていました。一般的に、製品サイクルの早いものほど、寿命も短く、そこで働くエンジニアも 短命と言うか、使い捨てにされる傾向があります。ただ、サイクルの早い方が、新陳代謝も活発で、生き生きとしてます。

私は家電メーカーから、光学機器メーカーに転職しました。 地元から通勤できる場所に開発拠点があるというのも大きな理由でした。 親が土地を持っていた訳ではありませんが、都心や関西に比較できないくらい、土地は安く、 畑なんか、タダでも貸してくれるほど、親戚も沢山ありました。どこまで親戚なのか、どんな親戚なのか わからないような、小さな町です、今でもそんなに変わりません。

 転職は、すごく不安でした、従業員何万人の大企業から、中規模な企業への転職でした、確か給料も下がったように思いました、給料なんかじゃありません、新しいことを生み出す、そういう仕事がしたいんですと面接で言ったのを今でも覚えています、今なら、どうでしょうか
 そこでは、開発部からはじまり、事業部になり新しい商品の開発が進んでいましたが、商品化に至るまで付き合うことなく、2年半で2度目の転職をしました、だから、その会社で担当した商品というのがないのです

これは今思うとちょっと寂しいです、もちろん、まじめに会社に行き、土曜は良く出てました、 大きな成果ではありませんが、普通にはいるだけのことやりました。 それでも、ひつの製品も残せなったと言うのは、製品設計技術者としては、給料ドロボーなんじゃないかと 今にして思うのです。
 なぜ、転職したかと言うと、格好良く言えばスカウトですが、誰でもいいから転職させ、それで利益を上げるという業種が出始めていました、給料も上がる、仕事も将来性がある、会社の利益も大きい、それで、もう、二つ返事で行くことにしました

3社目の会社では、沢山の製品を世に出すことに参画できました、自分が担当した商品は 大きな利益を上げることはなく、そういう意味では、給料ドロボーかもしれませんが、やるだけのことをやって、製品を出したという ことです、それ以上は運がなかった思うよりしかたがありません。
上に乗っているのが、この会社でのヒット商品です。 1991年頃です、電池で駆動できる超小型の液晶プロジェクターです、字幕が読めないような粗い画面、隣の人の 顔が見えない程度の真っ暗い中でしか実用になりませんが、大きな画面で表示することができました。

フィリピンの奥地で農業指導や、生活改善活動をするために、非常に効果があったというお手紙をいただいた記憶があります。この手紙は今日まで一番うれしかったお客様からのお手紙です。 仕事の面白さ、自発的なテーマを探して、会社のお金で、面白いことができ、感謝される、こんな面白いことはなかったし、他に代わるものはなかったです。
これが絶頂期でした、バブルがはじけ、確実なプレーヤーが優遇され、人間的にもちょっと個性豊かな私は、この後、 会社の中での居心地の悪さを感じるようになりました。

そんなことも考えていても、仕事は来るし、やれば、面白いのです。
インスタント写真を組み込んだデジタルカメラです。この機構部分の設計を担当しました、とは言っても、このころは外の設計チームを 率いての仕事でした。 結果を出せていれば、今の、このホームページを作るような、生活にはなってないと思います。

handycycleは、会社でのある種の挫折感、会社との決別のエネルギーが、形になっています。 会社の仕事が面白いまま、のめり込んでいたら、こういうエネルギーも時間も残っていなかったでしょう
組織の中での仕事は、個人ではできない規模の大きな仕事ができます、それは、社会的に認知もされやすく、手ごたえを感じることができます。知識も経験も、どんどん増えて行きます。成長が実感できます。

 一方、自由度は制限されます、これをやりたいと言っても、社長ですら、それができません、どのポジションにいても 大きな制限を受けます。自分のやりたいことと組織のやってほしいことの折り合いを常に合わせる努力が要求され、それにエネルギーを 使い、やりたい事へのエネルギーが無くなってしまうことがあります

  

それでも、まだエンジニアを続けていました。プリンタです、とても使いやすく、写真屋さんに出すのに近いレベルの写真がプリントできます。この仕事で、気力を使い果たし、次の機種が来た時に、切れてしまいました
会社に行くことが出来ずに、最寄駅についてから、ミスタードナッツという所で30分から長い時は1時間もつぶし、やっと会社にいける状態でした、今はウソのように回復しましたが、ミスドの習慣だけは、しばらく続きました、ミスドのコーヒーが私を救ってくれました。

展示会での写真です、今は一般の方は知らない分野の仕事を担当しています。職場の異動で復活することが出来ました、自信満々のかつての自分がそこにいるわけではありませんし、まったく手探りな状態で、毎日を過ごしていました。 飽きっぽい性格だから、新しいことが好きで、このころは毎日がなんでも吸収できるような新鮮な気持ちでした
一人で、輪行にいったり、朝からフィットネスバイクに乗り、プロジェクトXのビデオを見てから会社に向かったり、読めないほどの量の本を購入したり、すっかり気分は、30代でした
やせました、やはりストレスで食べ過ぎていたのだと思います、身も心も軽い、健康というのは こういう状態なんだというのを知った思いでした。この10年は一体なんだったんだ、会社も自分も損をしたのかも知れません、 でも、その10年があり、いまの自分があります、これはとても重要なことで、消し去ることも忘れることも出来ません。 とにかく毎日を充実させ、できれば、一人でも多くの仲間と楽しい時間や達成感を味わいたいと思っていました


自然に囲まれています 勤務地も変更になり、業務の担当も変わりました、まあ、希望退職制度の対象となる年齢になり、さしたる結果も出せてないと、会社にいるだけで、相当なエネルギーが必要になります
研究所で、研究者のための設備に関する業務をしています。自分の研究テーマもあるにはあるのですが、それは二の次です。設備や、機器の担当スタッフとしてチームに貢献することが第一優先です。そろそろ1年になります。機器とは言っても、自分が今まで見たこともない機器を扱い、知らない専門用語が出て来て、新しい仲間ともやることも、相当なストレスです。  機械を専門としたエンジニアとして長いこと生活の糧を得ていましたが、特に民生商品では、無駄な競争も多く
世の中のためになっているのか、疑問に思うことも多かったので、こういう、自分が中心にいなくとも、
社会に貢献できる仕事もいいかなと考えた時期もありました。
今ははやく、ここで必要な人材になろうと努力している状態です


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